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ジャングルと海 Jungle and Sea 〜2001タイ採集紀行〜
文と絵:大内正伸 Masanobu Ohuchi





3日目「ジャングルの乱舞」
The dance of butterflies wildly in the jungle


タイコブラに遭遇

 夜中に目がさめるとすごい雨の音がする。明け方にも雨は残り,今日の採集調査は見送りか? と思われたが、朝飯を食べていると,小止みとなり,出発のころには雨は上がっていた。

 さあ,オレにとっては25年ぶりの昆虫採集の始まりだ。高校生の頃は竹のつなぎ竿を愛用していたものだが,今は通称「磯ダモ」と呼ばれるカーボンファイバーの竿を使うのが主流だ(つまり磯釣りで魚をすくう道具の網の部分だけを昆虫用に取り替えるのだ)。今回のためにオレも釣り具店で購入し,ネットやチョウを入れる三角缶や三角紙は昆虫の専門店で購入しておいた。

 コテージから徒歩で林道を下り,右岸のジャングルに入ろうとするが,川が増水して渉れそうもない。しかたなく左岸の果樹園の小道に入ってみる。

 ドリアンやランプータンの果樹に混じって雑木がぽつぽつと立っている。マメ科のネムノキに似た1本に,30尾くらいのチョウが舞っているのを見つける。竿を伸ばして採ってみると,デリアスと呼ばれるカザリシロチョウの仲間だ。羽の後ろの原色が美しい。それにマダラチョウの仲間,大形のアゲハがやってきて乱舞している。夢のような光景だ。

 図鑑や海外の標本でお馴染みのチョウだが,オレにとっては採るものすべてが初めてなのだ。最初,ネットの距離感がなかなかつかめず苦労したが,それにしてもチョウの数がすごいので,何度かネットに入れているうちに25年前の感覚が甦ってくる。ときおり大形のシロチョウ,ツマベニチョウが目の前を飛翔していく。トリバネアゲハの仲間,キシタアゲハもやって来る。それにしても木が高すぎて,なかなか採れない。諦めてスケッチに切り替えていると,タテハチョウの仲間などが目の前を横切っていき,そのたびにスケッチを中断してネットを振る。

 現地の果樹園の人が,チョウがたくさんいるところを案内するから,と付いて行ったら,果樹に白い大形のハゴロモがびっしり着いているのだった。木をゆすると雪のように舞うのである。帰り際に通ったその人の家は木造の高床式の家で,古いタイプの民家のようだった。バンコックからここまで建築も観察していたが,穴の開いたコンクリートブロックを使用した家もり,新建材のピカピカの家もあり,バラックにヤシの葉を葺いた屋根を持つ家も見かけた。建築様式が新旧入り乱れ,タイのスタンダードの民家形式が見えてこないのだ。

 昼食にコテージに戻る道すがら,ケンが道の側溝にタイコブラを発見する。まだ子供だが,ちゃんとエラを広げて威嚇姿勢をとっている。う〜んまいった! やっぱりいるんだコブラが……。ちょうど溝に落ちて,行ったり来たりしているところを写真を撮ったりスケッチしたりしていると,現地人が通りかかった。彼はそれがコブラだと解ると,恐れをなして決して近付こうとしなかった。

「カメラを手にすると僕は人格が変わるんですよー」というS氏はぐっと近付いて平気でシャッターを押していたが,さすがに限界の近さに達するとコブラはシュッと音をたてて飛びかかる。後ろに飛び退いたS氏は腰をついてへたり込み,

「これからは歩き方に気をつけねばいけませんねー」なんて言っている。

 昼はラーチンさんが下の市場に買い出しに行き,ニラ餃子と,そうめんのようなヌードルを買ってきてくれた。それにかける2種類のたれも用意してある。上にキャベツやキュウリ,バナナの花(花芯の部分か?)を乗せ,さらにナムプラプリックをかけてまぜながら食べる。「ナムプラ」というのはヒコイワシなどの小魚に重しをして塩蔵発酵したものの上澄み汁を使った調味料で,東南アジアでは広範に用いられる。ベトナムではニョク・マムと呼ばれる。すなわち「魚醤」である。日本の醤油のように,タイの食卓では欠かせぬ調味料だが,これにタイレモンの絞り汁と,ニンニクを包丁で叩いたもの,それに赤と緑のトウガラシの輪切りを入れて混ぜたものが「ナムプラプリック」だ。小さなお椀に常にこれを作っておき,スプーンで粥にも麺類にも,ご飯にも,好みで回しかけるのである。ナムプラの独特の風味と酸味,辛味が食欲をそそる。カイコのさなぎや,茹で落花生もおつまみに買ってきてくれた。

  

ヒルに血を吸われる

 午後は,ラーチンさんに車を出してもらい,川を横断していよいよジャングルに入る。道を歩く間,オレはずっと右岸の原生林が気になっていたのだ。

 川を渡って車を降りると,いきなりパリス(モンキアゲハの白紋がエメラルドグリーンになっているチョウ。日本のカラスアゲハに近い,世界的な美蝶)が横っ跳びして,タッちゃんが沢沿いでネットに入れる。ジャングルに林道がついていて木を抜き伐りしたような跡もあり,途中にサルの檻や鹿を飼っている場所もある(これについては後述する)。

 すごいジャングルだ。まず高木のスケールに圧倒される。次いで中層木の種類が実に豊富だ。竹の類やバナナも混じっている。下層は開けたところは草本がたっぷりあり,内部には重なった落ち葉の中からいろんな樹木の実生が芽生えている。つる性の植物や,寄生植物もそのスケールがすばらしい。信じられないようなチョウの種類の豊かさが,その植生構造の複雑さを物語っている。オレもパリスをネットに入れた。スソビキアゲハ,見たこともないタテハ類,「森の妖精」と呼ばれる,長い尾状突起を持つシジミチョウの仲間,大小のシロチョウ類,日本ではごく少ないマダラチョウの仲間もここでは天国のように,多種類がこずえの上をひらひらと飛んでいる。意を決してジャングルの中に入ってみると,そこには森林性のコノハチョウやジャノメチョウの仲間がいて,たちまち三角缶がいっぱいになる。シロチョウの中にもオレンジの翅を持ったような種類がいたり,タテハの仲間も斑紋がすばらしいのがいる。

「ここは、かなりチョウの種類が多いみたいだ。いい場所に当たったな。だけどタイの原生林に入ればだいたいどこでもこんな感じだっぺ」

 興奮さめやらねオレに、ケンが言う。

 タッちゃんやS氏は,途中の遊水池でいいヤンマを採った様子である。午後4時にラーチンさんが迎えに来てくれた。

 ジャングルでヒルに血を吸われたらしい。背中の服の上から血が滲んでいるのをラーチンさんに指摘されて気が付いた。痛くも痒くもないのだが,血が止まらないのがやっかいだ。エタノールをつけてもむといいらしいのだが,かわりにウイスキーをティッシュに含ませて止血してもらった。


チョウの保存整理

 あまりにチョウの種類と数が豊富なので,同じ種類はせいぜい3頭程度にとどめ,なるべく多種類のチョウを採るように心掛けたものの,初めての海外採集なので,日本でいえばモンシロチョウやヤマトシジミにあたるような凡種を採ることもオレにとっては喜びなのだ。ネットに入れたチョウは翅を傷めないように押さえ込み,胸を指で圧して殺す。それを三角に折ったパラフィン紙のような半透明の紙に包んで,腰に着けたブリキの3角缶に入れておく。コテージに戻ったら,それを プラスチックの密封容器に入れ替え,乾燥剤を入れて保存し,日本に持ち帰るのだ。

 25年前の昔もこのような方法で,展翅しきれないチョウを冷蔵庫で保存したものだった。ところで,マダラチョウの仲間は胸を圧してもなかなか死なないのでちょっと驚いた。三角紙を開いて斑紋を確認しようと思ったらひらひらと飛び出す始末だ。

   

 死んだチョウはやがて硬直してしまうので,身体が柔らかいうちに展翅板と呼ばれる標本制作道具で固定し,きれいに翅を開いて整形しておくとよいのだが,これは大変に時間がかかり集中を要求される作業なので,日本に持ち帰り軟化してから展翅するのだ。

 ケンたちはトンボや甲虫やその他雑多な虫も採集しているので,コテージに戻ってからの標本の準備も大変である。トンボは肉食であるため腐敗が早く,腹綿を切開して薬品処理をするなどの手間がいる。この処理の不備で胴体が変色してしまうものもあるという。カブトムシなどの甲虫は,現地で毒瓶とよばれる薬品入りのガラス瓶に入れ,死んだ後はピンセットで足やひげを軽く整形し,綿を敷き詰めた紙の入れ物に並べ,やはり密封容器で保存する。種類によっては腐敗するものも出てくるので,移動中は発布スチロールの容器で冷蔵するときもある。

 日本に帰ってからはさらに足の格好をきれいにそろえて固定させ,ラベルを付けて整理する作業が待っている。胸にピンを刺し,そこに採集日や採集者,採集場所などのラベルを付けて,ドイツ箱と呼ばれるガラスの蓋のついたケースに保存する。常に防虫剤を入れておけば何年でも色褪せることなく保存でき,ラベルの情報はそのまま価値ある研究データとなる。

 日本国内でさえ,いまだに新種の発見があるほど昆虫の種類は多く,生態も解明されていないものも多い。これだけ自然破壊・開発のスピードが早いと,内外を問わず採集データーは貴重なのである。昆虫の中でもチョウは種類の少ない部類で,日本国内のチョウはアマチュア研究家の手によってほとんどの種の詳しい生態が調べられているが,ここ数十年の森林相の変化と開発で絶滅危惧種もでており,分布が極端に乱れている。

 幸いタイのチョウは全6巻からなる英文の図鑑(J.N.Eliot/1992)が日本でも入手できるので,おおよその種類は分かる。それでも美麗種以外の多くは,分布や生態が解明されていないのが現状だ。たとえば最初にネットに入れたデリアスと呼ばれるシロチョウはヤドリギを食樹とするという。これだけでもオレにとってはわくわくするような生態の秘密である。

 25年前,オレがチョウの採集の到達点で夢中になったゼフィルスと呼ばれるミドリシジミの仲間は,それぞれが固定した広葉樹に依存しており,その翅の色彩や模様も依存する樹木とのいわく言いがたい連鎖を感じた。昆虫の色彩と生態は,幾重にもしかけが込められてた造化の神の深遠なるデザインだ。この海外での採集を通じて,新たな眼で日本の自然を感受するアンテナを磨くことができるのではないか。三角紙を整理しながらそんなことを思った。

 夕食は,皆で初日の成果を喜び合いながら,鶏のトムヤムスープや,淡水テナガエビを茹でたのや,山菜入りの野菜炒めなどをごちそうになる。

 夜は灯火採集をする予定であったが,日本から持ち込んだ発電機がエンジントラブルを起こし,諦めざるを得なかった。しかしコテージの明かりにアトラスと呼ばれるカブトムシがやってきたりして,オレは夜中も撮影やスケッチに追われっぱなしだった。

 その夜のチャラン先生の話によれば,これだけのナチュラルフォレスト,グレートフォレストは,タイでも貴重な存在とのことだ。ヒルは悪い血を吸ってくれて民間療法にも使われているくらいだからまったく心配ない,サソリもこの辺のは小さくて毒が弱いのでノープロブレム,しかし,コブラだけはくれぐれも気をつけるようにとチャラン先生に念を押された。■


            




▲写真
1)果樹園でネットを振る筆者
2)道ばたにタイコブラをみつける
3)僕の道具たち
4)吸水するキチョウの群れ
5)ジャングルのツルや巨大な葉に目を奪われる



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