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ジャングルと海 Jungle and Sea 〜2001タイ採集紀行〜
文と絵:大内正伸 Masanobu Ohuchi



5日目「ラーチンさんと」
With Mr. Rachintr


朝粥の香り

 昨夜はよく飲んだというのに5時に目が覚めてしまう。ジャングルと市場の光景が目に焼き付いており,興奮が身体のすみずみに残っている。

 ところで,初めて東南アジアを旅するオレがやけに現地の食に通じているのは,学生時代に開高健の本を愛読していたからだ。ベトナム戦争取材で長く滞在した彼のエッセイをずいぶん読んでいたのである。オレにとっては20数年ぶりにして初めての追体験,これが興奮せずにいられようか。

 朝からブタ肉ミンチのお粥。パクチィの香りがなんとも清清しく,ナムプラプリックの酸味と辛味とで,食欲のない朝にも不思議と食えてしまう。料理は別棟の台所でラーチンさん自らが調理し,下ごしらえや片付けは現地の女性にお願いしているのだが,このラーチンさんがただものではないのである。

 実業家で日本やアメリカ滞在の経験もあるラーチンさんは,今は息子さんに商売を譲って悠々自適の日々。かつては軍隊で数学の教師をしていたり,趣味でカーレースをやっていたこともあるという。同じ58歳のチャラン先生とは大学の仕事の取り引きで知り合ったそうだが,今は利害を越えた親友のようである。

 われわれがタイ料理に飽きないように,しかしこの季節のタイの味わいを十分体験できるように,ラーチンさんたちは計らってくれていた節がある。オレも料理をするので,その手付きや味付けや全体のバランスや盛り付けなどで,ラーチンさんの力量が分かるのだ。市場の買い出しでも,タイレモンをいちいち手に取って吟味していたりして真剣だった。狭いキッチンで,たいした調理用具がないというのに,野菜炒めや卵焼きや,ポットにお湯をいつも準備して即席のタイお粥を作ってくれたりしたのだった。タイの食卓に欠かせないナムプラプリックも,フレッシュなタイレモン(緑でピンポン玉大の柑橘類。皮は薄く,味は日本のスダチやカボスに近い)をすぱっと切ってそれを絞り,小さなニンニクを皮のまま包丁で叩き,赤と緑のトウガラシを放り込んで,ナムプラと合わせるのだが,それを毎度ラーチンさんが手作りしてくれるのである。もっとも,つくり置きなんかしてると,翌日は浮かんでいる虫を一緒に食べることになるのだが。


花園山を思う

 午前中はオレとS氏とTさんはみたびジャングルへ,ケンとタッちゃんはダム周囲の森を偵察に行く。65歳のTさんは疲れを微塵もみせず,黙々と一人でトンボを狙っている。S氏はトンボの他,チョウや雑虫にもネットを振っているようで忙しそうである。ジャングル3日目だというのに,初めて見るチョウがまだまだ採れて驚いてしまう。いったいこの森だけで何種類くらい棲息しているのか? シーズンを変えればまた違う種類のチョウが飛んでいるはずである。

 今の日本の山では,まず飛んでいるチョウの数が極端に少ない。そして種類もまた極めて貧弱になっている。だが,スケールこそ違うが,むかしオレたちの通っていた頃の花園山は,まさにこのジャングルのようなチョウの飛び方をしていたものだ。林道を多種類のアゲハが舞い,開けた草地には多種類のヒョウモンチョウが群れ飛び,タテハにしても,コムラサキ,ゴマダラチョウ,スミナガシ,シータテハ,クジャクチョウ,ヒオドシチョウ,アカタテハ,ルリタテハ,と平地から山地性のチョウがいくらでも飛んでいた。ミスジチョウやオオミスジもいた。またスジボソヤマキチョウ,オオヒカゲも簡単に採れたし,前述した山地性のゼフィルスも数こそ少なかったが多種類存在した。また、セセリチョウの種類も豊富であった。電車とバスとヒッチハイクで通っていたわれわれの効率の悪い採集方法をもってしても,あれだけの昆虫を見ることができたのである。

 あの黄金の花園山時代から20年近く経って,オレは花園に再取材と考察を試みたことがある。そのとき昭和の初期に原生林の伐採に従事していたという才丸の古老に出会ったのだ。彼は花園の昔の森がいかに雄大な樹海であったかの他に,弥太郎坂に近い山ノ神の祠の,オオカミにまつわる伝承を教えてくれた。そのときオレは,当時のオレたちが伐採をまぬがれた原生林の最後の名残りを歩きながら,チョウを採っていたのを知ると同時に,花園に昆虫が豊富だったいくつかの要因を見いだした。一つは,あの一帯が冷温帯林と暖温帯林の接点に位置する場所で,もともと天然の樹木や植物の種類が極めて豊富であったこと。
もう一つは,山麓の花園神社がかつて常陸五山の山岳信仰から始まった重要な霊場で,周囲の森林が保護された歴史があること,加えて大平洋から内陸部に向かう荷馬が通う主要街道が中央部を横断しており(平潟港からの塩街道),周囲の集落は必要以上に自然を収奪することなく山里の暮らしを保てたこと,などである。

 エネルギー革命以前は,煮炊きに大量の薪を必要とし,田畑の肥料にも森林資源を大量に用いた。木の伐採と収奪を繰り返した結果,光が好きで痩せ地に強いマツが里山に増えたのは周知の事実だ。しかし,小規模な自然の撹乱は新たな昆虫相を生み出す。ハチは軒下に巣を作り,カミキリムシは積み上げられた薪に,用水池にトンボが,人家の果樹から発生するチョウもいる通り,数千年の人の営みとともに歩んできた種も多数存在する。花園の場合,そのような里が近いということも,豊かな昆虫相を生み出した見逃せない要因の一つであろう。

 多樹種の森を持つ花園は特殊な場所だったのか? 否、おそらくこのような場所は日本各地にかつては多数存在し,今も潜在しているのである。これだけ細かく複雑な山稜に恵まれた日本列島だから,垂直分布や地質や河川との関わりまで考慮すれば,冷温帯林と暖温帯林の接線を地図上にきれいにひくことなど不可能だ。

 また生物学者の故今西錦司は,西欧経由の単極相理論を日本の森林にそのまま当てはめる愚を指摘している。そして,ブナを主とする冷温帯林と,クス・タブ・シイを主とする暖温帯林の極相の他に,「混合樹林帯」と呼ぶべき樹林帯があると主張する。彼の晩年の論考を引用してみよう。

 <……極相林に対置されるものとして,二次林という言葉がある。言葉の意味は極相林を伐採したあとに生えてくる林だから,二次林といったのであろう。二次林といえども自然にまかせておいたら,時間はかかってもやがてもとどおりの極相林にもどるというのが,単極相論者の主張だから,自分で親しく自然を歩かないひとが,そう信じこんでいてもやむをえない。

 ところが事実はそうではないのである。自然の中には,いつまでたってもいわゆる極相林にならない部分が,かなり大幅に存在する。……中略……

 まず二次林という言葉を使うことをやめよう。ではいままで二次林という言葉で指摘されていたあの膨大な種類の落葉広葉樹林をひとつの言葉で表せるだろうか。明治のはじめに渡来したマイルは,クリ帯という言葉を使った。クリもたしかに二次林中の一樹種である。しかし,東北日本におけるブナのように圧倒的な優占種が見つからないということが,命名を困難にしているのである。クリをとってもエノキをとっても,その中に含まれるべき数多くの種類を代表したことにはならない。さりとてこれを雑木林といっても俗にすぎるであろう。私も適当な言葉を考えているのだが,思い浮かばぬまま,Misch Flora というのを直訳して,とりあえず「混合樹林」ということにしたい。そしていままでとかく照葉樹林やブナ林に眼をうばわれて,この混合樹林の事実の重要性のまえに眼をつぶっていたひとたちに,混合樹林の重要さを,指摘したいのである。またこの混合樹林という言葉は,広葉樹にかぎらず,その中に針葉樹がまじっていても,そのまま摘要されるところに長所がある。

 たしかにこの混合樹林は太古から存在し,いつになっても他の極相に移行しないという点では,それ自身がひとつの極相と見なしえられるものである。また東北日本のブナ林と西南日本の照葉樹林のいずれからも見いだされる共通種がたくさんふくまれているという点では,この混合樹林を媒介とすることによって,ブナ林と照葉樹林とが結ばれる可能性があるということもいえるのであって,このことは植物から人間に話が移り,文化の起源とかとかその伝播が問題となるとき、きわめて重要となってくる。むしろ混合樹林という一つの地盤のうえに,ブナ林と照葉樹林という二つの対立する植物相社会が浮きあがってくるのであってこういう構造をいままで考えつくひとがいなかったというのが,不思議でさえある。……中略……

 照葉樹林の極相林がベタ一面に西南日本の土地をおおうなどということはまったくの作りごとであって,極相林だけ取りあげても,太古から照葉樹林の極相林も混合樹林の極相林もモザイク状に入りまじっていたというのが実状であるだろう。そしてそれが垂直分布でいうなら,山地帯のブナ林の下につづいて,私が亜山地帯と名づけた地域を特徴づけるものであり,そこは早くから人間の居住地帯になっていたため,その植生を復原することが困難であるという理由で,大方の学者の研究対象から外された地帯でもあった。しかし,よく見ればこの地帯をカバーしているものは,他でもない、それがすなわち混合樹林なのであった。われわれはそこに太古以来つづいてきた人間と混合樹林の共棲を見るのである。……中略……

 われわれにとって幸いなことには,この亜山地帯をおおった混合樹林が,西南日本から東北日本まですこしも切れ目なくつづいていたということである。東北へゆけばブナがずいぶん低いところまでおりていることを知らないわけではない。しかし,それはブナの極相林によって,すべての土地が占拠されているということではない。われわれは多極相論者だから,そんなに料簡が狭くはないのである。われわれは本州の北端まで,いたるところに混合樹林が分布しているのを見る。それがわれわれの見る真実の,日本の自然なのだ。>

(「混合樹林考」/『自然学の展開』今西錦司/講談社1987)

 かつての花園の森は,まさにこの「混合樹林」の極まった姿だったのではなかろうか。そして,いくつかの要因のおかげで,昭和の始めまでその姿が保たれていた,ということだ。


ジャングルの夜空

 またしてもヒルにやられてズボンに血が滲んでいた。しかしオレはジャングルに十分満足し,S氏とネットを振りながら林道を下っていった。ラーチンさんの迎えの車がやってきた。Tさんは下の川で粘っているらしかった。

 昼食時,コーカサスオオカブトが採れたダム周辺を調査していた
ケンとタッちゃんが,「すごくいい場所だったぜ!」と興奮して戻ってきた。ラーチンさんとチャラン先生と協議の末,われわれは明日の午前中そのポイントを探り,その足で宿泊場所をバンコック寄りに移動することにした。チャラン先生のコネクションでラヨーンにある大学生協関係のコテージを借りられるというのである。また,近くに船で渡れる島があるので,そこを調査しても面白かろうとのこと。

 午後,皆はカオ・ソイ・ダオ最後の採集に向かう。オレは一人だけコテージに残って,チャラン先生の似顔絵を描く。ラーチンさんの顔は中国や西洋の血を少し感じるが,チャラン先生は生っ粋のタイの野武士のような顔だちである。これまた完成の絵を気に入ってもらったみたいでホッとする。しかしそれを見たラーチンさんは,

「チャラン先生はもっと肌が黒いぞ」などと批評をはじめたので,

「肌の色の表現は大変難しいのです」とオレは逃げてしまった。

 夜,当センターの所長さんが挨拶に見えた。ちょうどわれわれがここに入ったときの土砂降りで,下流の町は洪水に見舞われたという。そのせいで所長もしばらく不在だったのである。残念ながら,タイ語は挨拶以外まったくわからず,英語もろくな会話ができないので,詳しい話を聞くことができなかったのが残念だ。

 明日の出発の荷物をまとめたり,疲れも出てきてみな早々と寝てしまうが,オレはスケッチブックの絵日記を描いたりしていると,ラーチンさんがテラスにやってきた。ラーチンさんは夜12時に寝て朝6時に起きるのが長年の習慣だといい,2人でコーヒーを飲みながら12時まで話し込むことになった。といっても,前述の通りオレの英語は会話のレベルにも達していないひどいものだ。何となく分かる部分で話をつないでいるうちに,ラーチンさんが,

「私は花が好きで,自宅に花の庭があり,満月の夜にその白く輝く花を眺めながらピアノを聴くのが好きな時間だ」とか,

「日本にも観光やビジネスで滞在したが,タイと同じく英語が通じない。これはお互い西洋列強の植民地支配を受けていないから」とか,

「オオウチ,自分を貧乏な芸術家などと言っていないで,いつも自分のアートで金を得る方法を考えろ。お前はもっと海外に出なければならない」などと言っていたのが聞き取れた。

 オレは3人の娘がいて,長女はユリの花から名前をつけた,日本には白くて美しい野生のユリがあって,すばらしい香りがするのだ。とか調子に乗ってしゃべっていたら「会話に過去・現在・未来形くらいきちんと使い分けろ」などと諭されてしまった。

 ラーチンさんに誘われて外に出ると,天空に見たことのない黄色い星が出ている。星の名前も由来も教えてくれたのだが,自分の語学力ではいかんともしがたいのであった。■




           




▲写真
1)タッちゃんがパリスを仕留める。カオ・ソイ・ダオの沢
2)上から、ラーチンさんと、「アローイ!(美味しい)」
タイの果実たち、ジャックフルーツ
ランプータン
マンゴスチンとドリアン
3)コテージでの晩餐。左からTさん、S氏、タッちゃん、ケン



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